昭和四十六年一月二日 朝の御理解
御神誡一、腹立てば心の鏡のくもること。
確かに、あー、腹立てば心が曇るですね。えー、曇るどころかそれこそ心の中が雨風のように激しく腹立って、それこそ炎のように燃えて来るわけですね。そこに見境のつかんような結果が生まれて来る・・・。ね、それはやはり、神様の心というか、総ての事との調和が(とれなれん?)からだと思うんですけれど。えー、ただに、私と初代親先生の(ちょうしが?)お話をしよっ、まあ(水ぐらい?)しよっ時もここにベルが鳴って、結局、何時もそうでないでしょうか、私がたったこういう(しらいて?)用意が済んだ、そこで、あの、んならば(認める?)がこうでして、はいどうぞとこう訳なんです。私お話をしようと思うけれども、その調子が合ってないもんですから、なかなか出来ません。ただ私達の、んー、(じゅうしでもし?)準備が出来ておるだどうだろうかと思う、それでそこに話しがちょっと出てなる。まぁ、そういうな事でもですね、まあ、どうした事じゃろうかと、こういう、そこん所をもう曇っておるんですよね、心というのは。だからいかにあの、調子があわなければいけないかという事が分かりますよね。もう、本当にスムーズに行くという事、そういう時には決して腹立ちやらが、言わば、腹立てば心の鏡が曇るとおっしゃるけども、もう曇るような事お互いの、んなもう、ちらっとというな事が思うんですよね。だから、もう本当に言うたら、腹立ったら曇るどころかもう雨風、雷雨ごとになるといったような、激しい事になるんじゃないでしょうかね。そこに本当な事が本当の事として見えない、見境がつかない。
心の状態が、えー、心のくもりにいって、一点のくもりもない、(雲長?)もないといったような時に有り難い。そこに、えーお蔭があー、まぁ演出と( ? )がね。
今日は、家が元日 、今日が二日で、んー、私共が子供の時には二日は開かしておいて、普通は(嘘もんの朝でも?)朝早起きしてね。私もこの、昔の私の考え方というと、本当に徹底しておられるですね、まぁ正月(いっかも?)正月三日も、休ませないという、ね、それでいて休ませおるといったようなね、そりゃぁ朝のうち、三時間なり、四時間なり、それこそまあ三時の四時頃から起きてから、もう、私顔辺りはなーごうなってら、いましたですね皆さん。もう毎朝ちゃんとあの、わらをきって、もうそう、もう私は三時から、夜は、その、なを一重ね一つで打って、あの、ぬうてしもうて、それから、あーその、ゆっくり休もうとこう。もうほとんど一日分くらいして休んでね、あ若いのが案外、若いもんでもやっぱそれは、やっぱするもんだと思っていますから、そうする。ね、だから、え決してなぁ二日には休んでいない事になる訳ですね。そういう、このものの考え方、今時にも私はやっぱりそういうのの根性がない、ね。本当に、えー同じ、休ませて頂いても一仕事してからといったような、んーですけどね。
昨日、おー、丁度んー六時から、六時頃からでしたか、青年会の方達、青年の方ばっかりで、(大型学院時代?)ご本部に、まあこれは恒例になってしまったですけれども、合楽の青年会は、あーご本部参拝。去年は、その一つの勢いというかね、それこそ合楽の比礼ではない、中心の比礼だと、(改革者も?)言うて喜んで下さったんですけれどもね。
んー、今年はもうその事を取りやめようかというお届がありまして、けど折角合楽の生き方というものは、もう一つの事が始められたら、それがだんだん広がっていく事ですけれども、決して途中で止める様な事は絶対にしない。例えば、皆さんの共励会なら共励会でもですね、なら日にちがこうと決まったら、もう決してそれを変更しない。ん、それがね、言わば合楽の生き方なんです。言うならば、合、合楽の筋ね目なんです。かっちり止めるなんて、もう本当に合楽の信心を中断す、もう、(うたすたにきりがならんじゃないか?)神様にお願いをして、やらして頂いて、とに(?)えー言うておりましたが、ざぁっと45名ですか、6名ですか、丁度バス一台。お蔭を頂い・・・。勿論ですから、そういう一つの、勢いといったようなものでもね、途中でちょっとこうくじける事があるんですよね。そこん所が私は、やはりまぁ(共同たてこう・・?)と言う事はやっぱ信心の調子がね、そこに会うておらんともうやはり、それでもと言う様な事になるのじゃないでしょうかね。お蔭頂いとったから、まぁお蔭でやれや、やれ、今年お蔭頂く事が出来た、だから来年はまた、その思いが来年もという、そういう事になりますから前々からその気持ちで、えー例えばご本部参拝、年頭参拝をいかする事でありましょう。おそらく合楽の、おー、ご比礼を落とさない限りこういう事が続けられる事だと思います。
そして、皆一同でここで、んーご祈念をさせて頂いてから、あのー何か一言、おーお話をして下さいというた感じで言うておられましたから、ここに座らせて頂いたら、とたんに頂きました事がね「大きく大きく、小さく小さく」と頂きました。あのー、あー、何ですかあのー、ダンスの稽古何かする人が、あの「スロー、スロー」何ですか、「クリック」ですか?「クリック、クリック」とこう言うて、あのねそういう口調なんです。頂くのが。「大きく大きく、小さく小さく」こう頂きました。んですから、大きく大きくと言う事はね、ん、神様がお喜び頂ける様な事が、いよいよ大きく大きく、それには、あー、少々まあ無理があったって良かろう。必ず、青年会のバス一台に決まった事ない、バス二台だって良いのです。「大きく大きく」又ことこれ、神様が喜んで下さるという事。
ん、今年の例えば信心の、おー、焦点がやはり「大きく」よく考えて見ると「大きく大きく、小さく小さく」ですよね。お互いに、世界中の事を着実に祈れる信心とこう言った、ね、天地金乃神様の広大無辺な働き、その広大無辺な働きそのものを私共の心に頂く。神の心を心としてと言う事です。「大きく大きく」これより大きな事は変です。かと言うてんなら「小さく小さく」と言う事になってまいりますと、おー、(たんたん?)いたしあげましたように、ね、こればかりの事になるからによからんと、心許すい過ちを(?)であり。これはもう「小さく小さく」という事である。それを、例えばご本部参拝に、の、年頭参拝のおー、出発にあたって頂いたという事は、これはご本部参拝の行き戻りと言ったような事だけの事ではないと思う。お互いが一年間この事に心をかけさせてもろうて、一つ「大きく大きく」又は自分自身を見極めると言った様な意味において「小さく小さく」頂きゃいけんのだというて、お話させた事でした。
その「大きく大きく」と「小さく小さく」がです長を保ちませんとそこに、ん(やぶれた?)いわいる、心が曇る様な結果になりましたり、又はその雨風ともなりかねないものが御座います、内容が。
私は、んー、今朝から、あ、(よが?)初夢ですね。初夢を頂いて、本当に何と申しますか、自分自身のそのみじめな姿というか、もういよいよ、本当に吾無能なりと言わなければおられない程しの、私のある面での実相ですかね。それが(頂いなら、それは表現?)と頂いたんですけれどもね。
えー、私が、んー、引き上げて帰ってから、何かお商売をしなければっという、まあ焦りぎみで、お商売の事を、を色々思うておる時代の、その時のような雰囲気なんです。
久留米に何か商売のようで、自転車で行こうとしとる、所が空中(を見たとおりますから?)空中を(迷うですか後ろを飛んで行く所が、こうやってはいてんせんから?)どうしたじゃろうかと思った時に、タイヤん中に何か固い物が入ってる。だから、それを外して、色々こう中からですね、もう自転車修繕をする道具が一切入ってくんですよ、その中へ。ほう今時の自転車はこりゃぁ便利が良いなー、と思いながらですね、自分で思いよるとです、これだけ色々修繕する機械がこまこましい物まで一応入っておるけれども、私は何一つ、これは実際は出来ないんだなー、私の為にはこれはあったって仕方がないなーと思って、しかしこれは、これは、この自転車は子供の自転車らしいですよ、家の。家の子供達はえらいな、やっぱ途中でどんなに、修繕をしなければならないといい、ちょっとこれをとるだけで、直ぐにでも出来るようになっておるのに、これは私は子供以下だなっと思うておるんです。まあ事実私は大変機械に弱いんです、まぁこれは機械だけじゃないけれどもね、もうあんな事は全然だめなんです。ね、もういよいよ自分のつまらない所を本当に教えておられた。ほんた今度は場面が変わってですね、そこには言うならまぁ私が、まだ信心以前の、まあ言うならば、あ(いき?)の商売をしているうちに、それこそ(きな?)その(みず?)商売でもそういった人達が二、三人私の方へ来て、それは(お父さん?)お願いしますと言って、もう甘えるように、も、いろ、なんか難しい事の為に来てある、いかにも私に気がある様な、その態度で何か頼んでおる。私はそれがよう分かるんです、これは俺に(違っているな?)ただその俺をだま、まあ騙しよるという事がよう分かるんですけれどもね。私が嫌って言いきらん(しょぶん?)なもんですからね、んん、んん、よしよしと言うてからね、引き受ける所でした。ん、私はた、本当にそうです、もう騙されよると思うたちゃですね、その言葉(たくる?)もうこう言われるとですよ、そのー、そこでいやって言いきらんのですよ。そういう場面でした。
の、次には、やはりもういよいよ、修行が激しくなっておいるんでしょう、母が御飯をたかんならんという、もう私にたきもんがないっち言うて、いやあんたこればたけぁいいじゃんのっち言うてから、(古い新聞?)ばこうやって持って行って、ところが(古い新聞?)ですから、(まいむけ?)たけてもたけてもすっと消えてしまう。そういう時代。そしたら母が、あんたがもうほんな信心ばっかりしてから、あんたもう、もう仕事せんけんで今日は、あのー、おとう、まあ父が20年前若か60で、母も若いっちもう若い。今日は久留米にね、自分で仕事探しにいっとなさるよっち、私言いよるとです。ね、本当にああいう時代はあった、ね、ああいう寂しい思いをする時代があった。又は、私という人間はもう本当にどうして、ん、俺をば、お前にゃ、その、俺を馬鹿にしー、しとりゃせんかと、ぽってけ良いような事ですらも、んん、んんと言うて、嫌て言いきらん、まあだらしない証拠・・・。と言うてお前に何が出来るかと言うたら、さあ自転車修正、道具はそこに有っても、しゅ、修理一つ出来ない程しの(ものわっしゃる?)そういう姿を赤裸々にね、今日はこう夢の中で頂いた。もし本当に私に信心が無かったら、どういう事になっておったであろうかと言う事で御座います。
お蔭を頂いて、こうしてお蔭を本当にか、神様のお蔭でただ(えものを?)いうなら(むちりょく?)的な、言わばつまらん私がですね、この様にして日々有り難い御用にお使いまわし頂いておるという事。これはいよいよ今年は、そういう例えば時代の事を思うただけでも、それこそ「小さく小さく」と、自分の心にいよいよ、ね、それこそどんな小さい事でも、この位な事などと言うて(もしも?)そんな事があってはならん、ここにいよいよ焦点を置かなければならないなと言う風に思うんです。
昨日、御祭典中に、んー、ご神前で頂きました事を、昨日もお話いたしましたように、真ん中にお供えしてあられる、(鶴だる?)のお神酒より(あつこうて、お先に?)あの(鶴をこうね)った所を頂いた、もうそれこそ、おーお酒の薫がご神前にいっぱい広がるように、これは、私の霊的臭覚とでも申しましょうかね。これはあのー、例えばご心眼を頂くというものやらは、これはやっぱり、いー霊的の、い、(たかすむ、め?)な訳なんですよね。いわいる、お互いが様々な、あー意味でお蔭を頂く。眼ででも、鼻ででも、口ででも、ね、それを頂く事が出来る。昨日はそういう風に、薫、大きな臭いが、もうそれこそ、御広前(あれいじゃない?)ご神前いっぱいに、(させて?)頂いて、そして私が心の中に願おうと思っておる事、願わせて頂こうとしておる事、それが、天地の親神様の広大無辺なお蔭。広大無辺な働き、そういう広大無辺なお心を心としてです、広大無辺な働きに成らせて下さい、そうあらして下さいと願いたい。天地の親神様の心を心として、世界中に、ん、こう言う素晴らしい人間が幸福になる、それに直結する程しの思い方、又は考え方がここにあるのだ。それを、まず私自身が頂いて、それを、ね、それこそ、(かたい先生?)の事を分かるならば、世界万国に、そういう生き方を輝かさんというような願い。私の様な人間がようもようも、こういう、言うならば(大それた?)よ、程しの大変な事が祈れれる、願えれる、しかもそれが自分の手元の所からだんだん着実にです、ね、(昨日はもう?)本当に、えー、私が、んー・・・、若先生があのー、え、ご挨拶をしておりますのを裏で、聞かせていただきながら、こりゃ私の息子だ、(もうてがい?)聞いとったんですけれどもね、本当にいうならば昨日、(わゆん?)ばかりの事でしたよね、た、い、それこそ御大祭よりも、お良かったじゃなかろうかと思うくらいです、それに若先生が言うております事が、ささやかなお祭り(が?)やっぱり・・・。ね、それは事実私もそういう、思うんです、ね。神様が本当にお蔭を下さる事になったら、ね、例えばこと位の人が合楽に御神縁を頂いておる、本当に相済まない、本当にささやかな、そこになら神様がね、いうならば今年こそ、ね、いわいる、うー、大型、いわいるジャンボ的なお蔭と言うて下さるようなお蔭を頂かせて頂くその、心準備というか、信心の準備といった様な物がです、これは実感として、ね、世界中に、いわいる金光様の生き方、金光道を(にしきたい?)世界万国い輝かせたい、そういう一念に燃えておれれるという事、それが私は、今後の合楽の、又よりご比礼の、おー、基をなすことであろう、そういうお蔭を頂いた事は、何というても去年の様々な、あー、事柄の中からあらゆる角度から、色々信心を分からせてもらえる。ん、世界万国にまで輝かしたいなというような、これは又やっぱり何時も、私がなら一生、二生それこそ、小倉の方の先生じゃないけれども、ね、生まれ代わり、死に代わり、いわいるその願いを果たそうとなさっておられる、そういう祈り、願いに願われての、例えば私の思いもそういう事になって来るんであると思うんですけれどもです、そこに(せきをされる)そこ(激しいせき)大きい事、ね、いわいる大きな事ばっかりで一からと言うのではなくてです、それを実感として願われるお蔭を頂いて、いわいるより小さく、小さく。そこん所のそのかめあいと言うものがですね、非常に難しい。ね、ですから難しいですから、やはり、よっぽど心の調子が会うておりませんとです、何時も本当に私はこれだけ思いよるとに、こんな事じゃっとう言うて、心を雲らかせなけにゃ・・・。ね、まあ腹立ちとまではなくてもです、ね、心が曇る。大きい願いを持っておればもっておる程、やはりそこん所の、難しさというものを感じます。
大晦日の、あ、ん、んー、それこそ有り難い、勿体無いで、これ妹の話しなんですけども、帰らせて頂いて本当に有り難い事、勿体無い事で休ませて頂いておるにも関わらず、ね、そういう、いわいる(第一いろは?)の事。それがどういう事かというとね、もうあれだけ有り難い、有り難いと言うて帰って休ませて頂いたのに、お兄さんと一生懸命喧嘩しよる所を頂いたと。私はそのまだ、兄弟喧嘩した事がないんです(笑い)もう私は本当に兄弟喧嘩した事が無い、夫婦喧嘩もした事が無い、やっぱね先ほどから申しますように、なんとうなしに嫌って言いきらんとか、そんだらしない所があるもんですから、まあ言うならば、喧嘩もしきらんと言うのかもしれません。それこそ、ね、兄弟が大喧嘩しておるというんですから、それが侵害で侵害でたまらんと言うてから、あ、妹が話しておるんですね、あーいうお夢頂いてと言うて・・・。
ここにね、例えば、私が人間心と神心というか、ね、まぁ私そういう事は、あー、どちらかと言うと、大変人間心が強い。言うならだから、それはある意味で、大変行き届くと言う事を言われます。あー、もう、(子供達の車んとても?)もう私以上に心配してくれとります。それで私は、あんたがいらーん事言ういうな、よそん子供ん事にゃ心配さするなっち言うもんじゃから、(そのまま?)こちらはいわいる神心で行き、妹は、言わば最高の人間心と思うて人間心を使いよるのに、そういう事に成って来る。そこに、やはり頂かにゃならん。私共の心の中にです、言わば心が曇ったりする時、または、雨風を呼ぶような事になるという、人間心と神心が引っかかっておる時があります。ね、それを、こと、神心に代えたら全然問題じゃない事を、問題にしております。と言うてまたです、これはやはり、いー、私共は、あー、人間である事は間違い無い、人間の世の中に生活をしているんですから、ね、人間心もまた最高に使わなければならない事もあります。その辺の人間心と神心の調和が金光大神の、私は道だと思います。金光大神はそこん所を、まぁ実に見事に、いー、まぁ生活の中に現しておいでられたと思うですね。
お前がなーにも分からん、何ごつ言いよるかと言ったようなことが一つもない。ね、御伝記の中にあります。
・・・この頃文さんが神様神様、信心信心と言うて信心のおうせしてしもうて、ね、草履も作る暇もないだろうかと言うて、裏のもんが笑いよると言うて奥様が心を使われた。それは神様の御身命によって、今年は履き物、草履を履くなと仰せられるから、ね、畑に、田に出られるでも、もう言わば、あの中草履て言いますかね、小さいわらで作った草履をお百姓は履きますけど、そういう物も一切お履きにならずに、裸足でおい出られる。それを見て村人達がそげん言うなら、噂をするのを奥様は聞かれてから、ね、いわいる御神意である金光さまに、教祖様にそれを申し上げられておられます。したらどういう風にされるかと、村んもんがなーにも分かりゃせんと、お前達がそげん何ば気を使うか、俺は神任せで行きよるとぞと(おしふうに?)おっしゃっていない訳なんです。あーそうかなと、作る暇が無いから履かんのじゃない、そこん所を、それならこれからは、畑に行く時はくわの先に草履をか、かけて行く。ね、又はお前と二人で行く時には、お前が草履こう後ろから持ってきてくれ、牛を引っ張っておる時には、牛の背中に草履をつけていけとおっしゃった。ね、それこそ、その、人間心と神心が見事に調和している。
そこには、何事言いよるかと言うと(言うと?)心の中にはもう腹立ちは無いにいたしましても、心が曇っておる。その辺の所をですね、私は、いわいるまぁ腹立ちの、まあ(ぜんてい?)とでも申しましょう、ね。まぁここでは腹立てば心の鏡が雲ると仰せおられておられます。ね、だから言うならば、どうでも腹立った時にはです、雲ん所からもう雷雨なり雨風を呼んでに、いったような激しい事になりかねない。そこからです、おかげがうつる所なんか勿論の事、ね、間違ごうた事に成って来る。だから、そのいわいる、心の鏡が曇らない言わば(使用?)とでも申しましょうかね。
金光様の御信心をいよいよ、言わば、あの青年会に頂いた御教えじゃないですけれども、今年こそはやはり、私共も「大きく大きく」祈り願えれる内容を頂きたい、同時に自分自身を見極める事においてはです、いよいよ、ね、どんな小さい事でも、許される、許さないだけでの信心。そのためには自分の心には、言うならば顕微鏡をかけるような思い。それが人の事、又は神様の事、神様にお喜び頂ける様な事にはです「大きく大きく」大きな豊かな心で、それこそ(天体?)は望遠鏡でのぞくような思いで神様の心をいよいよ大きく把握させて頂いてのおかげになっていかなければならないとこう思うんです。ね「腹立てば心の鏡が雲る事」まぁ腹が立ってる所(しも?)じゃないけれども、もう雲んかかっておると言う時を大事にして行く、ね、大きな信心でそこん所を、私はカバーして行く事がね・・・。大きな信心を持ってです、そこん所のいわいる心が曇らんですむおかげ、それこそ一心嗅がれない私。
あれは、一心たすきの腕に彫ってある彫りに、一心鏡のごとしというのが(?)。そういう日々を願わせて頂いての信心。そして、その大と小とが、言うならば人間心と神心とが、ね、見事に合間って行くおかげ。ね、そういう私は内容からですね、いわいる金光様の御信心ぶりというものが本当に身に付いてくる。本当に素晴らしい信心だけども、おー、話したら神経がこんなしれからもう、そし、ちょっとした事に、いらいらそして(てまかんじ?)あなたちぃった大着かじゃなかじゃろうかの(本当の?)言うようなやっぱ人もあんまりおるでしょう。だからそういう所をですね、信心でバランスのとれた内容に、いわいる(よーと)代えて行きたい。とにかく腹立てばのその前提の所をです、大切にしていかねばならんと、ね。